ある寓話を紹介します。
ぶどう畑の主人が、朝早く起きて人を雇いに出かけた。1日10ドルで雇うことにした。9時頃に市場に行くと、ぶらぶらしている人がいるので、「私のぶどう畑へ行きなさい。1日の日当をもらえるでしょう」と言った。12時と3時ごろにも同じようなことがあって、また夕方の5時頃に市場へ行ったら、まだ仕事をもらいたがっている人々を見つけた。「働きたいならば、私のぶどう畑に行きなさい」と言った。日暮れになって、主人は会計係を呼んで、働いた者に給料を支払うように命じた。そして、夕方に来た人たちから10ドルずつを与え始めた。朝早く来た人は10ドルより多くもらえるだろうと思っていたところ、やはり10ドルしかもらえなかったので、主人に不平をこぼした。「私たちは1日中、暑さと闘って働いたのに、夕方にやってきてちょっと働いた人と同じでは不公平だ」と。それに対して、主人はこう言った。「私は君に正しくないことをしたのだろうか。10ドルの約束に半分しか支払わないとでもいうのか。君は約束した日当をもってさっさと帰れ。夕方に来た者にも、私は同じ賃金を払いたいのだ」。
この寓話を読んだ後は、誰もが普通とは違う感覚をもちます。我々の常識は、賃金は労働時間の長さや成果に対応すると思っているので、当然であり、そこに人としての努力の結果が表れるので、所属する組織体も発展していくと思っています。
ではなぜこの寓話が生まれたのか?人としての理想社会を思い描いたとき、この寓話に気づかされることがあります。それは人間としての価値は、能力があろうとなかろうと「かけがえのない存在」であり、労働時間や成果によって評価されるべきではないという考え方です。
この考え方をどう活かすかというと、職場で「2-6-2の法則」があることを知っていますか。2の落ちこぼれを切っても、6の中からまた新たな2が生まれてくるという法則です。ですから職場全体を底上げすることが肝心になるわけですが、人はすべて「かけがえのない存在」であることを知れば、この2のおちこぼれを潰すのではなく、力を発揮してもらうために、いろいろな形で回りが支えていくことが大切だと思います。
この寓話は、人の能力の高いも低いも社会の共有財産であることを教えてくれます。
合掌