知人がネットラジオで中江藤樹に関する逸話を話してました。藤樹を敬愛する馬方(馬の操り人)が、乗客が鞍に忘れた大金を乗客に戻しに30キロも歩いて宿に戻った。その乗客はその御礼に謝礼金を渡そうとするも、藤樹の教えを守る馬方はその謝礼を中々受け取らなかった。また、藤樹が作った店の看板書を依頼主がその文字を気に入り、もう一枚要望したが、「できない」と言って何十枚もの失敗作を見せてお引き取り願った。そして、その知人が藤樹の住居跡に行った折に、藤樹の息吹を感じて涙が止めどもなく溢れた。以上のような話をうかがい、どうしても藤樹記念館に訪れてみたくなりました。

 北陸自動車道「木之本インターチェンジ」で降り、約1時間で到着です。記念館の隣には、陽明園という、日本陽明学の祖と言われた藤樹の生地と中国浙江省余姚市の友好交流を記念して作られた中国式庭園がありました。1986年の町興し基金2億4千万円で作られたようです。藤樹のこの地での功績を顕す庭園でした。

 藤樹は1608年生まれで40歳でこの世を去ります。37歳から陽明学を学びました。このときに「致良知」の大切さを知れば「知行合一」の道に入ることができるという陽明学の大切な教えを学んだのです。人は誰でも「良知」という美しい心をもって生まれます。尊敬して認め合う心です。「致良知」とは、良知を鏡のように磨いて、日頃の行いを正しくするよう努力することです。有名な人間学を学ぶ雑誌の「致知」はこの言葉が語源になっているようです。「知行合一」は、人々は学ぶことによって、人として行わなければならない道を知りますが、学んだだけでは駄目で、良く理解し、実行して初めて知ったことになるという教えです。これらの藤樹の口から発せられた言葉が、熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰らに受け継がれて、幕末の動乱期に欧州人が高い学識と豊かな道徳意識をもつ日本人の凄さを知り、植民地でなく、対等な貿易国としての認識に変わる大きな原動力になったことは間違いないと確信しました。

 改めて、国力の源とは、単なる経済発展だけではなく、国民が「人としての正しい学びとその学びに基づく行動力を高めていくこと」にあると今回の訪問で感じました。高島市安曇川の記念館と書院には、日本の国力の源となった藤樹の学びと実践力、広き心と熱い思いがあふれていました。

合掌